現役時代は戦後初の三冠王、監督としては『ID野球』を掲げて弱小球団だったヤクルトでリーグ優勝4回、日本シリーズ制覇三度……、選手、監督として野球界にその名を残した野村克也氏が亡くなった。
名監督、大監督と言われた人は他にもいる。現に野村を上回る勝利数を上げた監督は4人。しかも、野村は勝率が低く勝利数が敗戦よりわずか2勝しか上回っていない。
しかし、他の名監督、大監督は圧倒的戦力や恵まれた環境で勝つべくして勝った人がほとんど。その点、野村が監督を引き受けた球団は就任時評価が低く、いわゆる『弱小球団』と言われたところ。
その中で、球団や選手の意識改革から始めて、あらゆる奇手秘策を駆使して強い相手にぶつかっていく姿が野球ファンだけでなく、社会現象まで巻き起こして野球に興味のない人達にも共感を与えたのだろう。
ある意味、これ程注目されて愛された監督はいないだろう。その『ノムさん』の生き様について考えてみる。
● 選手時代の野村克也
幼少に父を亡くして恵まれない少年時代を送った野村克也。野球部に入ったのも中学2年生と遅く、高校も無名の京都府立峰山高校。プロ入りも契約金無しのテスト生入団。
入団3年目の1956年に正捕手に定着。翌1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)などの伝説的スラッガーを抑えて本塁打王。その後8年連続本塁打王など9度の本塁打王を獲得。1965年には戦後初の三冠王に輝く。
結局、プロ生活27年で首位打者1回、打点王7回、本塁打王9回と超一流の成績を残し、入団した南海を退団後もロッテ、西武と渡り歩いて『生涯一捕手』を貫き1980年引退。
通算成績、3017試合2901安打、打率.277、1988打点、657本塁打と文句のない成績だが、本人は歴代2位の3017試合に出場した事を一番の誇りと公言していた。
運動後のジョイントメンテ&リカバリーケアドリンク【ランショット】
● 監督時代のノムさん
今の若い世代には漫画の世界と思われるかもしれないが、野村は選手時代の1970年から8年間捕手ながら監督を勤めている。その間、リーグ優勝1回、2位3回、3位2回でBクラスは2回だけという好成績。
現役引退後の1981年から9年間は『ノムラスコープ』と言われた配球の読み、打者と投手の心理的駆け引き等の解説が話題になり、テレビ、ラジオ、スポーツ紙、週刊誌等で活躍。
監督としての名声を高めたのは1990年からのヤクルト時代。データを重視する『ID野球』を掲げて、当時9年連続Bクラスと不振に喘ぎ『セリーグのお荷物』と言われていたヤクルト。
そのヤクルトを9年間で4度のリーグ優勝、日本シリーズ3回の制覇は野村にしか為し得ない快挙と言っても過言ではあるまい。
その後、やはり不成績の阪神、楽天の監督を勤めるが阪神では3年連続最下位。楽天でも4年の在任中Bクラス3回と好成績をあげる事は出来なかった。
しかし、『弱小球団』と言われるチームの再建を託される事こそ、野村の手腕を買われている証。阪神にしても楽天にしても『野村イズム』が根付いて、数年後リーグ制覇を果たしている。
● 心にしみるノムさん語録
『1年目には種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう』
『楽を求めたら、苦しみしか待っていない』
『部下を信じるというのは、リーダーの重要な資質』
『限界が見えてからが勝負だ』
『変わることが出来れば、自分自身を永遠に創造していける』
『現状維持は後退である』
『言葉の裏に愛情がない限り、どんな言葉も胸には突き刺さらない』
『何かをしたい者は手段を見つけ、何もしたくない者は言い訳を見つける』
『金は追うものではなく、ついてくるもの』
『勝っている時が一番怖い。リードしている時が一番怖い』
選手時代の栄光からすると、決して恵まれた環境での監督業とは言えなかった野村。その要因は妻の沙知代夫人にあったのも事実。しかし、『俺の女房は沙知代しかいない』と公言していたノムさん。また、あの世で仲睦まじく過ごして下さい。
ご冥福をお祈りいたします。